日本の「島国意識」と「普遍的人権」

Eyes on the Congoからの投稿その2

はじめまして、こんにちは。大阪大学外国語学部日本語専攻1回生の鉾久 真大と申します。

最近iPod touchを購入し、気軽にThe New York TimesやAP通信の記事を読むことが出来るようになりました。これらの記事を読んでいると、日本のメディアが伝えている情報がいかに限られているか、考えざるを得ませんでした。

NY TimesとAP通信を読みはじめて、まず驚いたのは、国際的なニュースを大きく扱っていることでした。iPod touch版NY Timesのカテゴリーでは、「WORLD」が真っ先にきています。

それに比べて日本の新聞では国際面は大体1ページ。ニュースを見ても、日本と無関係な事件や事故、災害などはさらりと流される程度で、NY Times、AP通信を読んで、初めて存在を知ったニュースは数知れません。

こんな話を友人としていると、そこに日本人の所謂「島国意識」が働いているのではないか、という意見がでました。

「日本を客観的に見てみたい」という理由で“外国語”学部の“日本語”専攻を選んだこともあり、この「島国意識」というものにもすごく興味を覚えました。

ご存知の通り、日本は四方を海に囲まれた国であるので(大陸内に国土を持っていた時代もありますが…)、陸続きの国境を持つ国と比べると、人や文化の行き来は難しいものであると思います。奈良時代の渡来僧、鑑真が来日を果たすまでに5度失敗し、失明までしたという有名な話はこのことを象徴するものだと思います(勿論、現在はこんな状態ではありませんが)。

また、江戸時代に鎖国政策を行っていたこと、そして国土を侵略された経験がほとんどないこと、これらが日本が「国内」と「国外」とを明確に区別して考えるようになった大きな要因ではないか、と思います。

この「日本は特別」という「島国意識」とでも言えるものが、報道における海外への無関心や、難民受け入れの消極性などに繋がっていると思います。

こういった問題を考えるときに決まって思い出すのは、オーストラリア国立大学のガバン・マコーマック教授が「テロ、悪、北朝鮮」『論座』2003年4月号に寄せていた拉致問題に関するコメントです。

「1977年から83年にかけての、13人の日本人拉致と90年代のスパイ船事件は間違いなく重大なものですが、一世代前の日本の行為とはスケールの点でとても比較にならないほど軽い。…自国のテロはゆっくりとしか思い出さず、またすぐ忘れてしまう、あるいは過小にしか思い出さない日本が北朝鮮のテロに大騒ぎする身勝手さが、朝鮮の南にも北にも鼻持ちならない態度に映ります。普遍的人権という枠でなく、日本のものさしの中でしか事を見ない日本の、北への憤怒は世界に通用しません。」

最後の一文が非常に胸に刺さりました。

「普遍的人権」

この意識が薄いのではないでしょうか?

命の重さは国籍など関係なく、みな同じであるべきなのに、実際は日本人の被害者が出たときだけ大きく報道し、そうでなければ対岸の火事と済ませてしまう。

今回私たちが取り組んでいるコンゴ民主共和国での紛争も、普遍的人権の観点から言えば、とても無視できるものじゃありません。

これからどんどんグローバル化が進んでいく中で、所謂先進国である日本が、「鎖国」政策をとるわけにはいきません。

国外で起こっていることを他人事だと考えず、自分と同じ人間に起こっているものと、もっと目を向ける必要があると思います。

どうか、コンゴに、そして世界中の不条理に、目を向けて下さい。

このエントリーをご覧頂き、ありがとうございました。少しでも多くの人の視野拡大に繋がれば幸いです。

鉾久 真大

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